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​六州帝国の歴史

※ここでは六州帝国で使用されている紀年法を使用する。六州元年は西暦紀元前500年であり、西暦に換算するには500を引けばよい。

​先史時代

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 今から1万年前、時は氷河時代である。海岸線は後退し、六州はツヴィスキー半島と地続きとなった。大陸から我々の祖先が入り、永住した。これが六州帝国の始まりと言える。やがて温暖化が進むと、彼らは狩猟・採集の生活を送る。大小さまざまな石器をつくり出し、意匠のこらした土器をつくり出すようになった。これが原始六州文化である。

 やがて中国からツヴィスキー半島を経て稲作が入ったことで、中国との国交が始まった。この頃から中語が到来し、文字が流入することとなる。これが六州300年頃である。

六州紀元前1万年頃   大陸から人類が流入、定住を始める

紀元前1000年頃     原始六州文化の大成

紀元前700年頃      稲作の伝来・普及

紀元前252年      大燕の巫女が中国に遣使を送る

六州元年        建国とされる年

300年頃        中文字の伝来

​306年         我が国最古の文章が書かれる      

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古代

 六州350年頃から遣中使を派遣し、先進文化を六州へ持ち込もうとする動きが活発になる。しかし、第一回遣中使では門前払いを受け、入国すら許されずに帰国することとなった。その後、5年ごとに遣中使の計画が取り沙汰されたが、嵐や内乱、地震、外国の侵入などによって中止・中断が続いた。第一回から50年後の六州400年、ようやく皇帝との謁見を許され、正式な国交を開くことになった。

 中国との交易を続けるにつれ、六州では律法に基づいた政治をせねばならないという機運が高まった。六州492年、現在の旧宮府田ノ里郡に初の都が完成する。翌493年、陵武天皇により我が国初の憲法が制定され、国家体制が整備されていった。

 陵武天皇の死後、天皇の玉座をめぐって内乱が発生。古代最大の戦乱である大燕の乱が勃発する。内乱は20年にわたって続き、都はすっかり荒廃してしまった。内乱に勝利し天皇となった仁武天皇は、六州542年に現在の旧宮府旧宮市に、中国の都を手本にした新しい都「大燕京」を建設した。大燕京はその後3度にわたる拡大・改造を経て700年後に遷都されるまで都として発展した。

 六州624年、度重なる天災や蔓延する病気を憂いた時の重仁天皇は、都に巨大な寺院を建造することを計画する。これが大燕寺である。これを機に大燕文化が花開いた。中国の影響を大きく受けたきらびやかな文化は、現在でも大燕寺や鎮国寺などで見ることができる。

350年 第一回遣中使(収穫なく帰国)

355年 第二回遣中使(嵐により中止)

340年 第三回遣中使(内乱によって中断)

341年 皇位継承をめぐり第一次田里戦争が勃発

344年 謎の病が猛威を振るい、国民の7割が死亡。皇位継承候補者も全員死亡したことで内乱が収まる

345年 田里宮から西都宮(現南都府南都市)に遷宮

350年 南都湾を震源とする地震が発生。西都宮が津波で流される。

370年 田里宮に宮が戻る。

383年 津済(現在のツヴィスキー)が侵攻し、津済の乱が発生。

390年 津済の乱を鎮める。

400年 第四回遣中使(皇帝との謁見に成功)

443年 田里宮から奥室宮(現在の旧宮府月祭市)に遷宮

462年 再び田里宮に宮を戻す

471年 第十三回遣中使。法学を学ぶため、研究生を送る

481年 研究生の帰国を機に法整備を進める

492年 田里宮を改築し、初の都を築造。陵武京と名付けられる

493年 初の憲法「陵武憲法」の完成

520年 陵武天皇崩御

521年 天皇の後継者をめぐり大燕の乱が発生。豪族同士の権力闘争にも結び付き、泥沼化

541年 皇位継承候補者の燕泰皇子の敗死によって大燕の乱が終結

​542年 仁武天皇が大燕京を築造。陵武京から遷都

559年 六州平定にむけ、奥州に軍隊を派遣。第一次奥州征伐

565年 津済に侵攻。徳原(現在のトクサンブル)まで軍を進めるが、失敗し撤退

566年 津端京(現在の湖北県津端市)へ遷都

567年 大燕京に都を戻す

572年 クーデター(仁武の変)により、仁武天皇が追放され、斎武天皇が即位する

573年 追放された仁武天皇が津端京に入り、南北朝時代に入る

580年 第二次奥州征伐。六州海側は紫雲谷まで、太南洋側は恩田まで平定

592年 現存する最古の貨幣が鋳造

599年 第三次奥州征伐。奥州を平定する

600年 遣中使によって天然痘が持ち込まれ、都で猛威を振るう

603年 都における天然痘による死者が人口の6割を超え、天皇が非常事態宣言を発令する

610年 旧宮断層を震源とする直下型地震が発生。これにより斎武天皇が崩御

611年 重仁天皇即位

618年 記録的な飢饉が起き、都が荒廃する

624年 大燕寺が築造される

630年 鎮国寺が築造される

644年 南北朝の統一

652年 都の復興が完了。この時代から平和な時代が500年ほど続く。

759年 中国から帰国した菅弁斎が、都の南に初めての本格的な天文台を造る

903年 独自の暦「大燕暦」が完成

1023年 遣中使の廃止。以降国風文化が隆盛する

1108年 都が発展するにつれ都が手狭になり、遷都計画が興る

1155年 新都を現在の宮都に建造することが決定

1294年 新都「宮都京」に遷都

1350年 国風文化が隆盛を極める。この頃に日本のひらがな・カタカナにあたる文字ができる

​1402年 財府の変。これを機に貴族の傭兵だった武士の権力が上がる

​中世

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 六州1402年の財府の変を皮切りに、それまで貴族の傭兵に過ぎなかった武士の権力が上がり、やがて武士が国を治める時代に入る。まず隆盛を極めたのが山氏であった。山富治の治世は平安であり、民を思う政治を行っていたが、富治の死後跡を継いだ富尚は私利私欲にかられ、政治が没落。各地で山氏に対する不満が高まった。富尚の時代は鎮圧されてきたが、その子富久の時代になると、鎮圧できないほどになった。六州1601年、ついに山氏は対立する川氏によって滅亡し、山氏政権が終焉した。

​ 川氏は木ノ津に幕府を開き、初めての武家政権を作った。六州1655年に幕府が完成し、武家と皇室との二重権力体制が確立された。幕府内での権力闘争もしばしばあり、なかなかまとまることはなかった。六州1835年に室海氏が川氏を滅ぼし、木ノ津幕府が滅亡する。

​ 六州1836年、室海氏は自らの故郷である室海に幕府を開く。しかし、この頃から土着の武士が台頭し始め、幕府の悩みの種となった。彼らは下克上によって自分たちの領土を得るようになる。幕府の権力体制が揺るぎ、戦国時代へと突入することになる。

1403年 山氏が財府の変に勝利し、権力者となる

1410年 山富臣が山宍司を排斥

1422年 山富時の乱で、富時が富臣を排斥

1430年 山富治が山富成を排斥。富治の治世が始まる

1412年 山富治が天皇の外祖父として大きな発言権を持つようになる

1420年 富治学校が完成。庶民も学べる初めての学校だった

1422年 都に庶民向けの病院「療生院」が造られる

1450年 富治の権力が最高潮に達する

1455年 山富治が死去。山富尚が後継

1460年 富治学校の廃止

1463年 療生院の事実上の廃止

1470年 クーデター未遂事件が発生(嘉門の乱)

1474年 打倒山氏を掲げた反乱運動が展開されるが、鎮圧(第一次耕采の乱)

1489年 山富尚が死去。山富久が後継

1525年 耕采の大飢饉が発生

1532年 第二次耕采の乱がおきる

1544年 川氏による山氏討伐が開始

1545年 石山の戦いで山氏が川氏を下す。川則君は敗死、嫡子の川則康は海州沖の飛島へ流される

1551年 東条重光の助けにより川則康が飛島を脱出。再び山氏討滅の兵を挙げる

1559年 恩田川の戦いで川氏が山氏に大勝

1563年 前津合戦で山氏が勝利。川則康が再び島流しに処される

1567年 中国との交易を再開

1571年 川則康が再び飛島を脱出

1577年 若崎の戦いで川氏が山氏に勝利。以降山氏の勢力が衰える

1582年 内仁天皇が川氏討滅の勅旨を出す

1588年 川三蔵が山氏から南都を占拠

1592年 川三蔵が神川の戦いで川則春に討たれる

1601年 川則春が砂詰の戦いで山氏を滅ぼす

1603年 川則春が内仁天皇から右大臣に任命される

1611年 川則康の嫡子則丸が、則春討滅のために知藩事を派遣

1617年 内仁天皇が則春討滅の勅旨を出す

1641年 根本で奥州川氏とともに川則春が討たれる

1655年 川則丸によって木ノ津幕府が完成

1662年 萬仁天皇が木ノ津幕府に反乱を起こすも鎮圧され、島流しに処される

1663年 幕府が公仁天皇を擁立。幕府の権力が公家の権力を超える

1692年 天安事件が発生

1721年 空斎の大飢饉が発生

1725年 川氏討滅を掲げ、知藩事勝又鉄山が反旗を翻す

1738年 勝又の戦いで勝又鉄山が敗北。一族郎党処刑される

1742年 川則長による大粛清が行われる

1751年 川則長が死去。大粛清の批判が一気に噴き出す

1759年 成江で富晴信が幕府軍に勝利

1788年 幕府方の高官・室海八宗が反旗を翻す

1802年 幕府側第二の拠点である藤前を室海八宗が占拠

1830年 天仁天皇が幕府討滅の勅旨を出す

1835年 室海天宗により木ノ津幕府が滅亡

1836年 室海幕府の成立。公家の下部機関として成立

1841年 第一次徳政一揆。この頃から土着の武士の力が強くなる

1906年 第二次徳政一揆

1922年 第三次徳政一揆

1930年 宮都戦争勃発

1958年 27年半に及ぶ宮都戦争が未決着のまま終結。このまま戦国時代へ入る

1977年 第四次徳政一揆

1982年 室海幕府が滅亡。主権者不在のまま戦国時代が続く

1993年 密教徒による大規模な一揆が発生

2006年 大田信正が密教徒による一揆を鎮圧

​2021年 西方から貿易船が到着する

​近世

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 六州2021年に西方から貿易船が到着して以来、六州では近世という時代を迎えることとなった。西方の技術や物品・知識が入ることで、それまで知る由のなかった世界の実情を目の当たりにする。この傾向に強い影響を受けたのが、戦国の勇者・大田信短であった。信短は西方に強い関心を抱き、宣教師を召し抱えると、次々と新しい文化を取り入れていった。信短の死後、その意志は羽山秀臣によって引き継がれた。しかし、秀臣の死後の六州2115年に天下人となり藤前に幕府を開いた徳山元康は、宣教師による弊害を憂い、宣教師を追放。子の秀康の時代には鎖国が強化され、西方の1ヶ国と中国、ツヴィスキー、チャタベツを除く国家とは国交を断つこととなる。

 鎖国体制の中、平和な時代が250年以上にわたって続くこととなる。近現代に外国から高く評価される文化の多くはこの時代に生み出された。また、現在で当たり前のように行われている習慣(1日3食等)の起源の多くがこの時代である。

2025年 鉄砲の伝来

2031年 西方の宗教であるヤハウェ教が伝来

2045年 西州の戦国大名・谷口義春がヤハウェ教の洗礼を受ける

2060年 四日市の戦国大名・大田信短が福武の戦国大名・古川足元を虎谷山の戦いで討ち取る

2068年 大田信短が京に入城

2070年 南都合戦

2073年 大田信短が南都合戦に勝利

2074年 信短、観音山を焼き討ち

2075年 信短、室海合戦で海老江氏に大勝

2076年 信短、虎山城の築城開始

2082年 信短、家臣の謀反に遭い死去

2083年 羽山秀臣、長山の戦いに勝利

2085年 秀臣、南州を平定。南都城築城

2088年 秀臣、後聖仁天皇に太政大臣に任命される

2090年 奥州平定。羽山秀臣による天下統一が完了

2095年 津済出兵

2098年 羽山秀臣の死により、津済出兵中断

2100年 木ノ津関の戦いで徳山元康が石山影成に勝利

2103年 徳山元康、征夷大将軍に任命される

2115年 元康、南都の陣で羽山氏を滅ぼす。同年、藤前幕府を開く

2121年 宣教師を追放

2135年 鎖国の完成

2138年 ヤハウェ教の禁止

2140年 西州ヤハウェ教の一揆(鎮圧)。ヤハウェ教の禁教が強化される

2157年 藤前大火。藤前城も焼失する

2170年 この頃から落語が演じられる

2172年 小石蔵太郎が吉田下野介を討つ

2216年 徳山吉康による幕政改革

2246年 六州周遊記が出版され、異例の大ヒット

2267年 田次意沼による幕政改革

2298年 田辺重五郎らによる海州探検

2308年 大宮泰明らによる北州探検

2310年 海州の詳細な地図が完成

2313年 北州の詳細な地図が完成

2319年 恩田儀兵衛による六州測量

2340年 恩田儀兵衛らにより六州全土の詳細な地図が完成

2346年 大飢饉が発生

2356年 西方から軍艦8隻が倉橋に来航

2360年 再び西方から軍艦が来航。不平等条約が結ばれる

2363年 二月十九日の政変(クーデター未遂)

2364年 第一次中州征伐

2365年 中南同盟締結

2366年 第二次中州征伐

2367年 将軍・徳山興康が大政奉還

​近現代

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 徳山興康の英断により大政奉還が実現し、平和的に新時代を迎えることとなった六州では、西方国家を手本に近代化が推し進められた。現在の六州帝国の原型がこの時代につくられた。

 やがて普通選挙法の下に議員を選挙で選出する方法がとられるようになる。庶民が自由に国政に参加できる制度が整ってきたが、戦争はそれを許さなかった。六州2436年、一・一七事件によって軍部が台頭し、翌2437年には普通選挙法が撤廃される。この時代から戦争へ突き進んでいく。

 六州2445年、太南洋戦争で敗北。戦後はツヴィスキー戦争の影響を受け、驚異的な経済成長を果たす。六州2470年には世界三大国家のひとつに数えられるほどとなった。現在は先端技術産業で世界を席巻する存在となっている。

2368年 新政府発足

​    ヤハウェ教解禁

2369年 府藩県三治制がとられ、5府40県が新設される

2371年 新貨条例発布

    廃藩置県。3府519県が設置される

2372年 徴兵令

    府県が3府32県に整理される

2373年 府県が3府47県に

2374年 チャタベツを編入。茶多別県を設置。府県が3府48県に

2376年 六津通商条約締結

2381年 四月三十日の政変

    国会開設の勅諭

    六州共産党結成

2382年 自由民主党結成

2383年 立憲民主党(現民主党)結成

2385年 島垣事件

​2386年 順奈事件

2390年 第一回帝国議会

    大六州帝国憲法が発布

​2394年 第一次六中戦争開戦。六州帝国が勝利

2404年 六米戦争開戦

    遷都法が可決。南都府南都市、藤前県藤前市、鷹津県鷹狩山市の3都市が候補に挙がる

2406年 六米戦争に勝利

2407年 遷都先が鷹津県鷹狩山市に決定

2408年 鷹津県を鷹津府と改称。府県が4府47県に

2410年 ​鷹津遷都

2414年 第一次世界大戦に参戦

2419年 大戦戦勝国として国際連盟に加盟

2423年 鷹津地震により甚大な被害を受ける

2427年 金融恐慌

2433年 国際連盟脱退

2436年 一・一七事件

2437年 普通選挙法撤廃

    第二次六中戦争開戦

​2441年 エヴィーレ合衆国に宣戦布告。太南洋戦争開戦(第二次世界大戦)

    同化政策。チャタベツ語を廃止し、宮都語に統一する。

    茶多別県を北州県に改称

​2442年 北州県内の地名を宮都語の地名に改称

2444年 鷹津五輪中止

2445年 鷹津大空襲

    連合国に降伏・終戦

    エヴィーレ合衆国の占領下に置かれ、六州帝国から六州国に改称

2446年 史仁天皇の人間宣言

2450年 エヴィーレ合衆国から独立。六州帝国に改称

    六州帝国憲法公布

2451年 六州帝国憲法施行

2453年 南方列島返還

2456年 国際連盟に再加盟

2457年 北州県内の町村名を元のチャタベツ語の地名に戻す

2460年 六江安保条約調印

    南海高速道路鷹津IC~南都ICが全線開通

2464年 鷹津五輪開催

2470年 GDPがエヴィーレ合衆国を超え世界1位に。三大国と呼ばれる

    六州万国博(南都万博)開催

2472年 森里五輪開催

2473年 石油危機

2478年 六中平和条約締結

2480年 12光年先の太陽系で岩石惑星を4つ発見

2482年 ツヴィスキー人民共和国(北ツヴィスキー)と国交を結ぶ

2488年 海州海底トンネル開通

2489年 史仁天皇が崩御。邦仁天皇が即位

    戦後初となる消費税導入

    中島海中自動車道が開通。北州県を除くすべての府県が陸路で結ばれる

2490年 北州県を茶多別県に改称

2495年 神川南部地震が発生。神川・南都大震災を引き起こす

2498年 金子五輪開催

2500年 初の大型宇宙望遠鏡「りくしゅう2500」の運用に成功

2501年 テロ対策基本法施行

2503年 施行以来の大規模な憲法改正

2505年 自衛隊が国防軍に改組

2511年 奥州・恩田沖地震が発生。北六州大震災を引き起こす

​2519年 邦仁天皇が譲位。望仁天皇が即位

​2520年 鷹津五輪開催

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